23.40周年 東海道新幹線の建設と0系量産先行試作車登場まで

  40年前の昭和39年10月1日に開業した東海道新幹線には当時の日本国有鉄道(以下、国鉄)技術陣が世界の常識を打ち破る最高速度210km/h運転が可能な新しい全電動車の電車を投入した。この車両が後に0系と呼ばれる新幹線電車で、今日の日本国内の新幹線のみならず、世界の高速鉄道の先駆けとなったものである。現在は後輩たちに道を譲って一線から引退、ほとんどが廃車、一部は国内外で記念物にもなっているが、東海道新幹線と0系新幹線電車の技術はどのように生まれたのだろうか。

1.東海道新幹線の誕生まで

(1) 東海道線輸送力増強の必要性
  第二次大戦終了後疲弊していた日本経済も戦災からの復興や、昭和25年6月に勃発、約3年続いた朝鮮戦争の特需等によって上向きに転じ、鉄道に対する輸送需要が急増してくるに従い、全国の主要幹線の改良、強化は緊急の課題となり投資が進められることとなった。特に京浜、中京、阪神等の工業地帯や大きな商工業都市が誕生、その大動脈である東海道本線の根本的な改良計画は最重点課題として取り上げられ、順次、電化(昭和31年11月19日、東京〜神戸間589.5km全線完成)、線路強化、待避線増設、有効長延伸、操車場改良、信号・保安設備の改良強化、車両に車内警報装置取付け等既存線の輸送力増強、保安度向上策を行い、併せて線路増設の検討もしていた。
  線路増設の方法には、腹付線増(複々線化)と別線線増があり、前者は既存線の隣に新たに併設するので相互に乗り入れて運用できるので使い勝手は良いが市街地での用地買収や線形が元のままであること等の難点があり、別線線増は主要な駅は既存の駅を使い途中は新線となるので線形の改良等が可能だがルートによっては新駅になり接続面で難点がある。
  国鉄内部ではこの線増方法について、当時様々な意見があったが、東海道線の輸送量増強は複々線によって解決するという考えが主流で、工事費の調達等の面から輸送の隘路だけを順次複々線化する等これは一部実施されている。

(2) 国鉄に十河総裁と島技師長の就任
  このように、数年後には輸送能力が行き詰まるとのではと予測される状況のもとで、昭和30年5月に、十河信二が第4代国鉄総裁に就任した。
  昭和29年9月26日の夜に台風により函館港付近で発生した洞爺丸転覆事故や、昭和30年5月11日濃霧の高松港外で紫雲丸が貨車輸送船「第三宇高丸」と衝突沈没するという大惨事が連続した責任をとって辞任した長崎総裁の後任ということで、昭和21年愛媛県西条市長を辞任して鉄道関係の仕事をしていたが、かつての鉄道院や満州鉄道での実績を買われて鳩山内閣から就任要請されたもので、難しい労使問題や大きな事故の連続で大変な苦労が目に見えている国鉄総裁就任には誰もが尻込みする状況であり、十河も既に71歳と高齢で体調悪いと固辞したが、周辺の説得によって結局引き受けることになった。20日の就任記者会見で、「国のため、国鉄のため最後の御奉公だと思い、線路を枕に討ち死にする覚悟で引き受けました」と述べたという。
  満州鉄道での経験等から大量高速輸送には世界の標準である広軌(日本では国鉄の軌間1,067mmに対して軌間1,435mmを広軌といっていた。世界的にはこの寸法が標準で、広軌はスペインの1,668mmのように1500mm以上の軌間のことをいう)別線線増による輸送力増強が必要と考えていた十河は、総裁になると、複々線化による輸送カの増強を進める技師長の藤井松太郎に替えて、国鉄を辞めて住友金属工業に居た広軌派の島秀雄(明治34年大阪生まれ)を、昭和30年12月1日、理事・技師長(副総裁格)として迎えた。
  秀雄は、戦前のD51形蒸気機関車等の設計や戦中は戦時型の63形電車の製作等に関係し、昭和23年3月車両技術系統のトップである工作局長に就任、旅客輸送の主力を機関車列車方式から電車列車方式へと転換を進め、昭和25年には電車が長距離運転にも優れた特性を発揮するということを実証し、その後国鉄の在来線に、電車・気動車の普及を進める原動力となった東海道線普通列車用の80系「湘南電車」を登場させるなどしたが、昭和26年4月24日に63形が桜木町事故を起こしたため、その改良の目処をつけ、8月に車両局長(理事)を最後に国鉄を去り、住友金属工業に入っていたのである。
  島の父安二郎は、戦前計画されたいわゆる弾丸列車計画の鉄道幹線調査会特別委員会委員長を務めた人で、秀雄はその下で超高速蒸気機関車の設計を担当していた。
  この計画は、戦前の昭和14年、中国大陸での戦争拡大に伴って東海道・山陽線の輸送力を増強する必要が生じ、東京〜下関〜中国間に将来時速200kmで結ぶ高速列車、いわゆる弾丸列車を走らせるという軍部の強力な後押しで国策化していた計画で、軌間が世界標準の1,435mm、線路は現在線に並行しなくてもよいことなど現在の新幹線のもとになったものといわれており、昭和15年には実際に用地買収、工事にも着手、昭和25年の開業を目指していたが、戦況の悪化によって新丹那トンネルなどごく一部に手をつけただけで計画は中止され、16年8月の敗戦を迎えた。しかし、その計画と具体的な建設基準には「新幹線」という言葉があり、その内容やそのとき買収した用地や建設したトンネルの一部を東海道新幹線建設に利用したことを考えると、この計画が無かったら、現在の新幹線は無かったかもしれない。
  十河は秀雄の先進的な考え方と技術力が国鉄には必要と考え、弾丸列車計画を念頭に「君の父親の計画した広軌新線を一緒につくらないか」と説得、島も減給になるものの意気に感じて広軌別線線増の夢を追うことを決断し、54歳で国鉄に返り咲くことになった。
  その頃は、アメリカなどでは鉄道が道路に置き換わり、世論的には今からは高速自動車道や飛行機の時代で鉄道はいずれ斜陽化すると言われており、当時の国鉄幹部の考えも、東京〜大阪間は一部複々線等で対応可能で、広軌の別線を引くなどは工事費等から考えて問題外と考えるのが主流で、政治的にも票にならない都市部の線増より自分の選挙区に新線を引くという圧力が大きく、四面楚歌の状況に近かったが、大量かつ高速の輸送を実現するには、大型の車両が高速で走行可能な広軌が大前提となると考える2人は、総裁が政治家への働きかけや資金調達、技師長が広軌新幹線技術の開発と分担して新幹線の実現に向けて動き出してゆく。

(3) 国鉄「東海道線増強調査会」
  最初から広軌別線線増とは限定せず、将来の東海道線の輸送量や増強方法等の問題を整理するため、総裁は昭和31年4月に国鉄内部で技師長を長とする「東海道線増強調査会」を発足させ、
将来の輸送量の検討
  道路、鉄道を含む総合的な交通量の現状把握、各交通機関の輸送力の現状、将来の暫定輸送量
将来提供すべきサービスの程度
輸送量を増強する方式
動力、車両、保守などの諸方式
その他これら諸問題に関連する事項
等の問題の調査を開始した。
  この調査会では、輸送量の見通しと、東海道線増強の必要性について比較的順調に意見がまとまったが、増強の方式をいかにするかという点については
(A)狭軌併設案
(B)狭軌別線案
(C)広軌10駅案
(D)広軌22駅案
(E)広軌電鉄案(旅客のみ扱い貨物は急行小口程度)
の5案があり、特に(B)、(D)、(E)の3案が中心に議論された。
  いずれの案をとるにしても1000億を超える当時としては巨額の投資を必要とすること、更に、すでに当時具体化しつつあった東京〜大阪間の高速自動車道建設計画との関係があり、単に国鉄の問題としてではなく、国内交通政策に積極的に取組んでいた政府の交通政策の一環として取扱うことが妥当と判断された。

(4) 国鉄鉄道技術研究所「東京・大阪間3時間への可能性」講演会
  このような時期の昭和32年5月30日、国鉄の鉄道技術研究所創立50周年を記念する「東京・大阪間3時間への可能性」と題する講演会が研究所主催で銀座の山葉ホールで催された。
  ここで、篠原武司研究所長は、平均時速200km、最高時速250kmという高速運転を目標として研究した結果、東京〜大阪間を3時間で結ぶことが技術的に可能であると挨拶、各論は客貨車研究室長の三木忠直(車両)、起動研究室長の星野陽一(線路)、 車両運動研究室長の松平精(乗り心地・安全)及び信号研究室長の河辺一(信号・保安)の各研究室長が発表した。
  この当時、研究所には戦時中の陸・海軍航空技術廠出身の設計エンジニア達が終戦直後にまとめて引き抜かれていた。技術者が分散してしまうと戦後の産業発展にマイナスで、また実際それだけの技術者を雇用するだけの会社も国鉄以外なかった時代であり、戦闘機等の開発を通じて得た経験と理論等を生かし、高速鉄道の研究を進めていたのであった。
  この日は雨が降って客足が心配されたが、ホールは一杯となり、立見も出るような盛況となった。
  ここで提案された新幹線の構想は現在実現されているものとほぼ同じもので、線路自体を全く新たに建設し、ここに軌道、信号、架線、運転保安設備等全ての設備を従来の線路の各種の制約から解放させて全く新しい技術と規格で作り、鉄道事故の大半を占めて完全には防止することが非常に難しい踏切事故も、新しい線路を完全に道路と分離することで防止できるので、高速に伴う安全面も問題が解決できるとされた。
  全く踏切のない新線とすること、速度を上げて行くと台車蛇行動が必ず発生し、それ以上速度を上げると脱線に至る速度(限界速度)があるが、台車構造を工夫すると限界速度を実用速度以上に上げることができること、高速でも車上信号と自動列車制御装置(ATC)による運転保安方式によって追突等の事故を防ぐことのできる等研究成果に基づく具体的な内容の発表であり、大きな反響を呼んだ。
  当時の国内鉄道の営業最高速度は100km/h程度、海外でも昭和30年、フランス国鉄の直流電気機関車がボルドー附近の直線区間47kmで最高速度331km/hの世界記録を樹立していたものの、欧州でも営業列車は最速でも160km/hであり、それ以上の速度は記録としては出せても、線路、電車線の保守、車両の保守等から経営的に成立しないとされ、国際的な鉄道常識からみても画期的なものであった。
  この講演会は国鉄本社役員の許可を得ず研究所が今後の展望を示す目的で行ったもので、本社からは非難を浴びたが、この山葉ホールの講演会は大きな反響を呼び、総裁と役員がもう一度その講演を国鉄本社で聞くことになり、総裁はその内容に大いに共感した。

  総裁は、この御前会議でさらに広軌新線の実現に自信を持ち、国鉄東海道線増強調査会は昭和32年2月4日の第5回調査会を最後に、「もはや東海道線増強は緊急課題」という結論を6月25日に総裁に報告させて審議を終了し、これらの検討結果を元に国へ積極的に働きかけ、政治家等を説得しながら時間がかかるの新線建設の鉄道建設法ではなく簡単に済む東海道本線の単なる線増工事として、広軌新線建設を強力に推進してゆくことになる。

(5) 政府「日本国有鉄道幹線調査会」と「交通関係閣僚協議会」
  昭和32年7月2日には総裁は宮沢運輸大臣に対して、東海道本線の増強について適切な配慮を要請した。これは前述のように調査会の調査審議を更に政府自体の問題として取り上げることを要請するもので、この計画が国政レベルの問題として推進されるべきであるという立場に立つものであり、総裁の要請に対して政府は、同年8月30日閣議決定をもって運輸省に「日本国有鉄道幹線調査会」(以下調査会と略す)を設置することとした。
  これに対応するため、7月29日には総裁の命令で国鉄本社に幹線調査室が設置された。この調査室は、政府の審議の実務をとりまとめ、事務局の仕事を行ったが、後日、組織の変遷が何度かあったものの、建新幹線設推進の母体となった。
日本国有鉄道幹線調査会は次のようなものであった。

・日本国有鉄道幹線調査会設置について
                                       昭和32年8月30日 閣議決定
  日本国有鉄道の東海道本線及びこれに関連する主要幹線の輸送力の増強ならびに輸送の近代化に関し必要な事項を調査審議するため、左記により、閣議決定に基く臨時の機関として、運輸省に日本国有鉄道幹線調査会(以下「調査会」という)を設置するものとする。
       記
1 調査会は、運輸大臣の諮問に応じ、日本国有鉄道の東海道本線およびこれに関連する主要幹線の輸送力増強ならびに輸送の近代化に関する事項を調査審議する。
2 調査会は、運輸大臣が委嘱する学識経験者および関係機関の職員35人以内の委員をもつて構成する。
3 調査会の会長は、委員の互選によつて定める。
4 調査会に、委員の職務を補佐させるため、幹事10人以内を置く。幹事は、関係行政機関および日本国有鉄道の職員の中から運輸大臣が、委嘱する。
5 会長は、必要に応じ、委員以外の関係機関の職員を会議に出席させ、意見を述べさせることができる。
6 調査会の存続期間は。昭和33年2月28日までとする。
7 調査会の庶務は、運輸省鉄道監督局において処理する。
8 調査会の議事の手続に関し必要な事項は、会長が定める。

  同年9月、第1回調査会が開催され、運輪大臣より大蔵公望調査会長に対し、諮問第1号「日本国有鉄道東海道本線及びこれに関連する主要幹線の増強ならびに近代化の基本的方策」が提出され、調査会は審議に入った。
  以来、調査会は4回にわたり審議を重ね、第1段階として東海道における新規路線建設の必要性について審議を進めることとし、11月22日、第5回調査会において調査会長より運輸大臣に対し、中間第1次答申「東海道に新規路線を建設する必要があり、かつ輸送の行詰りの時期と建設に必要な期間とを考慮するとき、これが着手は喫緊のことであると認む」が提出され、翌日閣議に報告された。
  しかし、当時の高速道路との関連などいくつかの交通政策上の問題があり、これらを審議するために、昭和33年2月、経済企画庁に「交通関係閣僚協議会」が設けられた。協議会は、新幹線の必要性を高速自動車道との関連において検討する3案件を最初にとり上げたが、当時の世論としては、自動車や航空機の時代が来るのに何を今更鉄道で新線を引くのか、世界の3ばか「万里の長城、戦艦大和、新幹線」などと揶揄される状況で、新幹線の必要性については疑問をもつ意見が当初圧倒的であったが、新幹線の持つ輸送能力と低い輸送原価等を繰り返し説明し、理解を得る努力が続けられた。
  幹線調査会の方は引ぎ続き新規路線のとるべき形態及び具体化の方策について審議を進めるため、11月25日の第6回調査会において2つの分科会を設立した。
  第1分科会は新規路線の形態、使用方法、動力方式、工期と建設費等の問題を担当し、翌昭和33年3月、狭軌並列、狭軌別線など3案の中から「東海道における新規路線は広軌別線を適当と認める」旨の結論を骨子とする報告書をまとめた。
  その内容は、動力方式は交流電化、最高速度250km/hの電車運転、推定工事費1,755億円などであった。
  第2分科会は、資金、投資計画、運賃の問題を受け持ち、大略次のような結論を骨子とする報告書をまとめた。
(1) 所要資金は、工事費1,725億円(車両費100億を含む)に建設中の利子年7分を合算して、1,948億円とする。
(2) 上記の金額は、我国の経済で賄い得ないものではない。
(3) 将来、収支は十分償いうる。新規路線建設のためには運賃値上げは必要ない。
  この第1、第2両分科会は、昭和33年7月7日、最終答申を永野運輸大臣に提出し、東海道新規路線建設はあらゆる施策に先行し、かつ強力に推進されるよう政府並びに国有鉄道に決断と努力を要望、翌々日閣議に報告された。この調査会は8月21日に廃止されている。
  連絡協議会での審議も進み、必要性の説明の効果もあり、また、「自動車は同じだけの旅客と貨物を運ぶとき、広軌の鉄道線路の8倍の幅120mもの道路がいる」等の資料が出され、その輸送能力と輸送原価の点が認識され、新幹線の必要性が認められた。新幹線と高速自動車道の二重投資になる恐れを憂慮したものであったが、結局それぞれの特性を生かして二者択一から二者共存することになった。
  同年12月12日の同協議会において「東海道新幹線計画は早期に着工する必要がある」旨の結論を出し、19日に閣議へ報告、了解となり、新幹線の建設がついに決定した。

(6) 東海道新幹線の着工
  昭和34年3月末の31回国会において1,725億円(利子等を含めて1,972億円)の実行予算総額が承認され、昭和39年度までの5年間で完成させるという至上命題が課せられ、本格的な工事に着手することになった。
  この予算は未確定要素が多い中で昭和32年の物価で試算されたもので、工事の進捗に伴い物騰や計画変更があり、最終的には3,800億円に膨張し、後に大きな問題になる。 また、この資金は国鉄の自己資金と借入金で賄われているが、国鉄が赤字に転落たのは皮肉にも開業初年度の昭和39年であり、以後厳しい経営が続くことになる。
  34年3月25日、東海道本線東京・大阪間線路増設工事が鉄道建設審議会において了承、4月13日、東海道本線東京・大阪間線路増設工事について運輸大臣認可、4月18日、幹線調査室を廃止し、幹線局を設置、幹線調査事務所を廃止し、東京幹線工事局を設置し、そこに名古屋及び大阪出張所を設置、4月20日にはトンネル工事が一番時間がかかることから 熱海市新丹那トンネル東口で新幹線工事の起工式が挙行された。
  昭和34年5月26日ドイツのIOCで昭和39年の第18回オリンピックが東京で開かれることが決定、工事完成の遅延は許されない状況となったが、500kmもの区間を5年半で完成、10日しか余裕は無かったが,オリンピックに間に合わせることができたのも、弾丸列車計画で基本的な技術研究、ルートの調査、用地の買収(18%済)、工事の完了後の保安(日本坂トンネル・新丹那トンネル)があったためと言われている。

(7)国鉄「新幹線建設基準調査委員会」
  前後逆になるが、調査会や協議会と平行して国鉄内部では新幹線建設の準備体勢が整備され、昭和33年4月1日に幹線調査室の下に、東海道新幹線の測量、設計、線路用地の保存管理等を行うため幹線調査所(後の各幹線工事局になるもの)を設置、調査会の分科会の報告提出とほぼ同じ時期の昭和33年4月8日には、島技師長を委員長とする新幹線建設基準調査委員会を本社に設置して、広軌新幹線の建設基準の審議を開始している。
  この第1回委員会で技師長は「今後の新幹線は広軌にして貨物輸送もピギーバックの採用等最新のもの、いわば鉄道の理想の姿にしたい」と挨拶している。34年2月20日までには11回の委員会、施工基面幅、車両、電化設備の3専門委員会を合計9回開催し、線路選定に必要な事項について議決したので27日に審議経過と議決事項を総裁に報告している。
  これらの線路選定及び線路、車両、電気運転の各設備の基本設計に必要な数値、いわば建設基準の骨格について得られた結果については昭和34年3月25日、日本国有鉄道建設規程第1条ただし書の規程により永野運輸大臣に承認を申請、更にこの議決のうち実カントの最大値を一部修正する(195mm→200mm)同年5月29日の12回の委員会審議結果を加え、翌35年5月12日、運輸省の承認が得られた。
  その後、測量や工事の進捗によってより細部の基準が必要になり、約1年後の昭和35年7月7日に第13回委員会が開催されて以降、12回以前の結論の修正、内容の肉付けと新たにレール重量、信号設備、電車線電流の周波数問題などについて審議が行われ、昭和36年8月4日の第20回委員会で新幹線建設基準の主要事項が議決され、同10月31日に役割を終えて新幹線建設基準調査委員会は廃止された。12月22日には一部改定と他の項目の運輸大臣への承認申請が行われた。12回以前の結論の修正は、貨物列車が機関車けん引から電車に変更されたために行われたもので、線路勾配と橋りょう負担力が修正された。この基準は、新幹線工事が完了する昭和39年年9月に東海道新幹線構造規則として運輸省令により公布された。この委員会で新幹線建設に必要な全ての項目が決定されたのである。

(8)世界銀行からの借款
  昭和34年3月国会にて承認された建設費は1,725億円であったが、資金調達が困難視された。池田政権の佐藤蔵相のアドバイスもあり、低金利だった世界銀行から借款することとし、また、これによって政府補償事業として内閣が変わっても工事完成を担保にする意味もあり、当時のローゼン世銀副総裁と接触したが、世界の先進国にも例のない250km/hで走行する新幹線に対する融資は発展途上国や戦後の困窮からの復興に助成するという融資の目的に合わないこと等色々指摘があり、最高速度を200km/hとして、既存技術の延長で可能であることや計画の詳細、収支等について説明、これに対して35年5月5日から世界銀行の調査団が来日し、約1カ月にわたり新幹線に関連する経済、技術上の問題点を調査し、その結果、採算性も認められて、昭和36年5月 2日、ワシントンの世界銀行本部で8千万ドル(228億円:当時は1ドル360円の固定相場制)の借款契約が調印された。条件は、昭和39年までに完成させること、年利5.75%、工事期間の3年半は据え置きでその後20年間で償還するというもので、昭和56年に約束どおり完済している。

(9)東海道新幹線の建設と試験線
  昭和34年4月に着工した工事は、用地買収、地元との設計協議等に大変な苦労をしながら、主に山間部や大都市郊外で工事が進められていたが、36年10月18日には東海道新幹線(東京・大阪間)の線路経過地、設置駅及び工事計画の運輸大臣認可を得た。路盤構造等の内訳は、切取り・盛土区間274km、,橋梁・高架橋区間173km、トンネル区間69kmの実延長516kmとなり、ターミナル駅については、大阪以西、東京以北へも延長できる位置とすることを基本に、東京ターミナルについては色々候補にあげられたが、利便性から東海道筋の品川、汐留、八重洲、皇居前に絞られ、最終的に東京駅の八重洲側に設置されることとなった。大阪ターミナルについては、現大阪駅、弾丸列車計画時に決定していた東淀川駅などが候補になったが、前者は淀川を2回横断し、更に淀川南側の人口密集地を通ること、後者は山陽に伸ばすのには便利だが大阪駅に遠いとされ、中間の宮原操車場近くの現在の新大阪駅に決定された。また、中間駅については駅数を最小にすべきとの考えから新横浜、小田原、熱海、静岡、浜松、豊橋、名古屋、羽島、米原、京都、新大阪の10駅の設置が決定され、最大駅間距離70km、平均駅間距離47kmとされた。
  また、最高速度210kmでの走行は未知の部分もあり、路線の規格も在来線と大幅に違うため、各種地上設備や車両の性能確認のため、様々な地形(曲線半径2,500R〜15,000R、最急勾配15‰、数箇所のトンネル、長大トラス・高架橋・合成桁等の橋りょう、2箇所のノーズ可動分岐器挿入)を持っていて戦前の弾丸列車時代に用地買収の進んでいた綾瀬〜間鴨宮(41km〜73kmの32km区間)の工事を優先的に進め、工事の進んだ37年4月20日に新幹線総局の現業機開として鴨宮にモデル線管理区を設置、その中でも、最も早く完成した鴨宮〜大磯間(12km)の一部を使い、昭和37年6月25日から試運転を開始した。昭和38年3月30日にはモデル線の高速走行試験で最高時速256km/hを記録し、新幹線の高速走行性能が実証された。
  それ以外は37年には東京、横浜、名古屋など大都市内へと工事が進み、昭和38年には新丹那トンネルの完成など長大トンネル、長大橋梁の工事がすべて完了、39年には軌道、電気、鳥飼車両基地などの開業設備工事が盛んになり、モデル線区間から熱海までは39年4月に、三島までは5月に延伸完成、5月1日からは大阪〜米原間とあわせて量産車による試運転が開始され、8、9月には全線試運転を実施した。
  予定より約半年遅れたが、走行試験、訓練運転等も終了し、5年半という短期間で世紀の大事業が完成、昭和39年10月1日に東海道新幹線の営業が開始された。

(10) 総裁、技師長の退職
  ある程度増額は予想されていたが、工事の完成まで予算総額の改訂が2回行われ、物価の高騰、協議による構造変更等によって最終的に総額3,800億円と膨れ上がった。この工事費の増額責任や政治家からのローカル線建設の要請を断って来た経緯からか、十河総裁は完成を見ることなく昭和39年5月19日の任期切れで退職することになり、その後島秀雄も慰留されたが辞めて、短期で用地買収、低予算での建設という困難な仕事をこなした土木エンジニアの初代幹線調査室長大石重成も退職していった。
  昭和39年10月1日、東京駅9番ホームでの「ひかり1号」列車出発式でテープカットをしたのは、第5代国鉄総裁・石田禮助であった。出発式の来賓名簿に十河と島の名前はなく、新幹線建設の生みの親は自宅のテレビで開業式典の様子を眺めていた。

2.新幹線の元となった車両たち

(1) 昭和25年 国鉄近郊形直流電車80系
  昭和25年3月1日、東京・沼津間に近郊形直流電車80系登場。従来、客車列車の分野と見られていた東京〜沼津間のような長距離区間を、電動車、付随車混成の「基本10両編成+付属5両編成+郵便荷物車1両」という最長16両編成で2時間半も走り続け、電車でも長距離運転が可能であることを証明した。
  茶色1色塗装が当然だった当時、みかんを表すオレンジ色とお茶の緑の2色塗装は「湘南カラー」と呼ばれ、新鮮な驚きを与えた。以後国鉄の標準塗色の一つとなって、本州JR各社にまで引き継がれてい たが、平成18年3月のダイヤ改正でJR東の東海道線から全て姿を消し、E231系に置き換えられた。
  最高速度100km/hで、昭和21年以降島が国鉄内に設けた「高速台車振動研究会」で研究されてきた高速運転用台車に当時最強クラスの1時間定格142kWのMT40電動機を搭載、電磁空気カム軸接触器式制御器、長大編成対応の改良型自動ブレーキなどを採用して、当時としては最新、最良のシステムを搭載していたが、1M方式、動力伝達方式は釣りかけ式、車体については台枠構造の簡略化で軽量化を図った程度で、内装は戦前同様に木製、照明も白熱灯であるなど国鉄電車における伝統的設計の延長上にあり、また集大成でもあった。

(2) 昭和32年 国鉄通勤形直流電車モハ90形(後に、101系と改称)
  昭和30年代に入って私鉄に新技術を採用した高性能電車が採用されてきたが、国鉄も研究を進め、通勤形新性能電車として昭和32年に登場したのが最初の電車運転の歴史を持つ中央線用のモハ90形電車(後に、101系と改称)であった。
  並行カルダン式駆動装置、台車装荷高速直流電動機、MM'ユニット方式、電動カム軸接触器式制御器、発電ブレーキ併用電磁直通レーキ、車体・台車の軽量化構造、両開扉、室内設備の近代化等でそれまでの電車に比べてあらゆる面で刷新され、この技術が近郊、急行、特急のあらゆる電車形式に展開してゆく。
  この電車を母体として誕生したのが151系こだまである。

(3) 昭和32年 小田急電鉄特急電車デハ3000形「SE(Super Express)車」
  小田急は、国鉄鉄道技術研究所の協力を得ながら、車両メーカー、部品メーカーと一体となって新時代の高性能特急電車の開発に取り組み、高速運転対応の流線形先頭形状、軽量化と低重心化を目的とした連接台車構造、ディスクブレーキの採用など新しい技術を採用した8両編成の小田急特急ロマンスカー3000形を小田原線に登場させた。
  この車両の第2編成は小田急と国鉄との協議の結果、新製直後で営業運転に入る前の昭和32年9月に国鉄の東海道本線で高速走行試験に使われることになった。小田急は線形が悪く、性能を発揮する高速走行試験のできる区間が十分取れないためで、また、鉄道界全体には立場を超えて高性能電車開発の気運が高まっており、国鉄も新性能電車の高速走行性能を確認したいというそれぞれの思惑が一致した結果であった。
  小田原駅付近で国鉄と交差するポイントを作り、ロマンスカーを国鉄線路に引き込み、大船〜沼津間で高速走行テストが行われ、昭和32年9月27日、函南〜沼津間での試験走行で最高速度145km/hという狭軌鉄道の世界記録を樹立した。SE車はその性能の優秀さで一躍注目を集め、電車編成による高速走行の可能性がこの時認められた。

(4) 昭和33年 国鉄特急電車151系ビジネス特急「こだま」
  昭和33年11月1日、東京〜大阪・神戸間に登場した初の長距離特急電車で、最高速度160km/hを誇り、6M6Tの12両編成。
  101系を母体とした車両で、昭和31年11月に東海道本線の電化が完成し、客車列車「つばめ」号、「はと」号が東京〜大阪間を7時間30分で運転していたが、「こだま」号はこれを40分短縮し、6時間50分(後に6時間30分)で結んだ。
  先頭は「ボンネット型」で走行時の抵抗を減少させるとともに重心を低くし、室内には全車冷房のためのユニットクーラーが配置された。また、台車は、モハ90形電車の高速度試験で性能が実証されたDT21形を基本に、これに空気ばねとアンチローリング機構とを併用したDT23形と、付随車にはディスクブレーキを装備したTR58形が採用された。
  東海道本線金谷−藤枝間の上り線を使って高速度試験が行われ、昭和34年7月31日、動力集中方式の客車列車をしのぐ快適な乗り心地を実現しながら時速163km(狭軌世界最高速度)を達成した。
  35年の11月も同じ区間でこだま形電車と架線試験車クモヤ93000による10日にわたる総合的な高速走行試験が行われ、金谷から加速、最高速度となる藤枝方に設けた約1.3kmの試験区間で架線試験車で狭軌世界最高の175km/hを達成している。
  その時の試験項目は、道床、緩和曲線、伸縮継目、PC枕木応力、レール締結装置、橋台裏軌道構造、橋梁の衝撃及び振動、土圧及び変位、路盤振動、列車風、騒音、ブレーキ性能、試作パンタグラフの集電性能、輪重変化、曲線通過時の乗心地、輪重横圧、変形Y形コンパウンド架線、合成架線の高速時の集電性能、パンタグラフ間隔40〜50mに対する高速時の集電性能、列車選別装置性能、車両検知器性能、列車内の信号機器の振動特性等であり、その他の試験を総合してそれまでの研究の確認が出来、また高速に対する未知の分野も解明され、新幹線の実現に明るい見通しを得ることが出来た。

(5) 交流電化対応車両
  日本での電化は直流1,500Vで進められてきたが、戦後、フランス国鉄の商用周波数の電力を直接利用する交流電化の実用化に刺激されて、わが国でも研究を開始することになり、昭和28年に当時の長崎総裁が商用周波交流電化の研究を決定、翌年3月には副総裁を委員長とする交流電化調査委員会が設置され、走行試験線区には急勾配があって負荷試験が十分でき、電化改修費が少なくてすみ、50Hz地区、単相の大電力が供給でき、列車間合いが十分とれて将来とも電化のメリットが残る支線区ということから、仙山線北仙台−作並間が選ばれ、工事が始まった。
  機関車については、いろいろな方式から交流整流子電動機式(直接式)と水銀整流器式各1両を試作することとし、フランスからサンプル機関車を2両輸入することとしたが、継続購入でなければ売れないと言われ不調、独自開発することになり、交流整流子電動機式ED441(日立:出力1,120kW)、水銀整流器式ED451号(三菱:出力1,000kW)を製作、それぞれ苦労の末昭和30年7月と10月に完成した。
  試験線は昭和30年2月に単相交流20,000V、50Hzの電化設備が完成、設備試験が実施されていたが、機関車の完成によって8月10日からED441が試運転を開始、引き続き9月から2両による本格的な試験が開始された。
  試験の結果、それまでの常識では考えられない優れたけん引性能(粘着係数)を示し、特に整流器式機関車は技術的にも経済的にも交流電化の有利性を決定的なものとし、それ以降の電化については交流電化とし、直流で着工直前であった北陸線の電化は昭和31年3月には交流で進めることが決定された。
  北陸線米原〜敦賀間の開業は深坂トンネルの開通に合わせて32年10月とされ、まだ技術的には課題があったものの、連続定格出力1,500kW、連続定格引張力14.7t、軸重15(後に16)t、最高速度90km/hという性能をもつ初の本線営業用交流電気機関車ED70を製作、32年6月から性能試験等を行い、10月から営業運転に入った。交流電化を米原構内まで持ち込むことが困難なため田村〜敦賀間が電化、米原〜田村間は蒸気機関車で接続することになった。
  その後、東北本線黒磯以北の電化には2,000kW級のED71が投入されるなど適用範囲が拡大してゆくことになるが、これらの交流機は斬新な設計と新材料を採用し、従来の直流機に比べて軽量であっても優れた性能を示し、新形交流機に刺激されて直流機も新設計を採用して飛躍的に性能が向上てゆく。
  一方、交流電化が遅かったこともあり、交流電気車の需要は少なく、33年2〜3月に2編成試作された2両1組の490交直流電車が最初で、水銀整流器の温度管理等の問題から、次ぎに昭和34年に試作された1両の交流整流子電動機式クモヤ791交流電車は主電動機の保守の問題からそれ以降進展は見られなかった。
  しかし、電車による高速列車網の拡充方針から、新性能電車系列の401系(50Hz用)、421系(60Hz用)交直流電車の先行試作車が35年8月と12月に完成、常磐線と鹿児島線に昭和36年6月に投入された。交流電車に搭載可能なシリコン整流器が本格的に採用され、主変圧器、主整流器、主平滑リアクトル等の交流電源機器はM'に搭載されるなど、交流電車のMM'ユニット構成が完成、新幹線の交流電気システムの元となっている。

3.量産先行新幹線用試作旅客電車1000形

  広軌別線線増に使用する新幹線車両の構想は、新幹線建設基準調査委員会が発足した昭和33年に、その具体的な検討を進めるために当時の臨時車両設計事務所に新幹線担当部門が設置されて進められてきた。
  最初は車両の性能、基本形状を決定することであるが、前提となる新幹線の構想は、概ね次のようなものだった。
○東京〜大阪間 約500km
○到達時分 通過3時間、各停3時間40分
○途中停車 通過1駅(名古屋)、各停10駅
○列車編成 8〜12両編成
○最高速度 時速250km/h
  車両の検討を進める上で問題となったのは、編成方式、電気方式、高速時の走行安定性と台車、高速域における走行抵抗、粘着係数、ブレーキ方式とブレーキ距離、トンネル進入時の衝撃的風圧、高速列車のすれ違い、パンタダラフの集電性能、車軸軸受の温度特性、自動列車制御等色々あり、これらの中で基本的な事項は新幹線建設基準調査委員会で審議、決定されたが、その過程では数多くの試作試験や在来線での151系での走行試験等の結果などが反映された。
  その結果、構想実現への自信をは探まったが、最高速度210km/hのような高速での性能を決める車両抵坑は完全には把握できず、列車の出力計算にもある程度仮定が入ること、在来線と違い広軌で車両も大きくなり、電気条件も新しく、更に新しくATC(自動列車制御装直)も付くということと、量産時には一時に同じ構造の車両が何百両と生産されることになるため、後で問題が発生するようなことを完全に無くすため、最産の前に昭和36年から試作電車6両の製作を行い、各種調査、試験を行い、量産車に反映させることになった。
  試作車はA編成2両、B編成4両の計6両とし、最小限の両数で有効な試験、訓練ができるよう考えたもので、AとBを連結して6両で総括制御も可能である。
その当時の検討資料によると次のような考え方で設計が進められた。
編成方式
   新幹線の列車は全て電車方式とする。
  東海道新幹線を走る旅客列車は全て電車列車とし、「こだま」をもっと流線形にした高速性能で乗心地のよい近代的な設備の電車で編成される。新幹線を電車のみの鉄道とした理由は、機関車でけん引する列車に比ぺて、
(イ)列車全体に動力を分散するので各車輪の負担重量が均等化されて軽くなるので線路や構造物の規格を大きくしないで高速度運転ができる。従って全体の建設投資額を少くすることができ、保守その他の年間経費も安くなる。
(ロ)電車列車にすると勾配が機関車けん引ほど苦にならず、軌道の勾配選定面で有利である。
(ハ)列車の両端に運転室を持って簡単に折返し運転ができるので始終端駅設備も作業も簡素化され、列車を頻繁に運転することができ車両の利用率を高められる。
(ニ)高速からのブレーキとしては、電気ブレーキが一番合理的で、各軸に電動機をもった全電動車として電気ブレーキをフルに活用し、高速からのブレーキが安全且つ合理的にかけることができる。
(ホ)機関車で引張る場合に比べて、車体にかかる引張カが小さく、車体強度面で有利である。
(ヘ)動力を分散しているので車両故障によって運転に支障を来すことが極めて少い。
(ト)列車内の各種サービス設備を電化することが容易である。
等の優れた点が多いからであり、貨物列車を新幹線に走らせる場合も貨物電車の編成にするという今までの鉄道にない新しい方法を採用する。
電気方式
   高速化にともない1列車の動カが非常に大きくなるため、電圧の小さい直流電化では変電所の数が非常に多くなり、建設費が高くなる。交流だと高圧にでき、直流の場合より電流が少いので集電面でも有利である。
  直流で3.0kV位の高圧も考えられるが、主電動機、シャ断器、補機等がかえって絶縁上不利になる。
  交流の場合20kVから40kV位まで検討したが、変電所間隔をのばすことと、空間絶縁距離を大きくとるための建設費の増や設計上の不便を考え合せて、世界標準である25KVとする。
  東京〜大阪間は、50Hzと60Hzの両周波数地域にまたがっているが、両サイクル電化にすると車両側が複雑になり、また60Hz地域が東京〜大阪間の約3/4であること、将来山陽にのびる可能性や、車両技術の発展の余地ものこす意味で60Hz統一に踏み切った。
  電車は単相交流25,000V、60Hzを架線からパンタグラフで集電し、車内に装置した主変圧器で1,500V以下にステップダウンした後、シリコン整流器によって直流(正確には脈流状態)に直して、各車軸を駆動する直流直巻電動機(正確には脈流対策を施した電動機)を回転する。電気的には2両を一つの単位として1両の電動車(MD)にパンタグラフ、主変圧器、タップ切換器、シリコン整流器、その他高圧の保護機器及び駆動用の主電動機(4個)を持っている。もう1両は普通の電動車(M)であるが、駆動用の主電動機(4個)の他に発電ブレーキ制御器、抵抗器、電動発電機などを2両分装置している。このように、2両を1単位にして機器を分担してあるのは、できるだけ1両の重量を平均化させるためである。
250km/hの高速性能
   速度性能としては東京〜大阪間を3時間で運転するのを目標としており、そのため計画最高速度は200km/hで設計している。
但し、モデル線に於ける試運転のときはそれより高速の領域までテストを行って技術的信頼度を確かめる。従って、試作車は主電動機の界磁に特別設計をして250km/hまで発揮できるように考えている。
高速台車
   この様な高速性能を発揮するために最も研究設計に苦心が払れる部分は走行装置であるボギー台車である。即ち車両が高速度になるとレールと車輪の関係運動として台車の蛇行動が生じ易くなり、車両の乗心地が悪くなるばかりか更に甚しくなると脱線の危険さえ生ずるに至る。
  そこで蛇行動防止の研究が高速用台車完成のため徹底して行われ、35年に鉄道技術研究所に新しく台車試験装置が設備され供試台車を試験装置に乗せて250km/hまでの速度に相当する回転駆動を行って蛇行動発生防止についての方法を求めた。
  その結果、十分高速に耐え得る台車の設計が可能になった。試作車両としてまとめ上げられた高速台車の方式は2軸ボギー台車で枕バネ装置としては空気バネを使用し振動を吸収すると共に復元力は空気バネの特性として有する横剛性を利用する。
  台ワクはプレス鋼板を溶接組立した構造で軽量かつ強固なものとしており、軸箱はコロ軸受で油潤滑としている。主電動機は高速軽量の設計(1個当り出力170kW)で台車装荷され可とう接手で歯車に伝達駆動する。
  モーターの軸の車軸は平行に位置する形式のいわゆる平行カルダン式である。車輪は一体圧延車輪で高速度運転に十分耐え得る様に設計される。車輪輪心の内外にはディスクブレーキが取付けられる。全てこの様な台車は「こだま」などの台車を基調にして高速度用に近代設計が加えられた日本国鉄独特の高速台車である。
ブレーキ装置
   高速からのブレーキ装置としては全部が電動車であることの特長をフルに活かして主動機を発電機として作用させる電気ブレーキ(発電ブレーキ)を働かせ200km/hから停止に至るまでの殆ど95%の運動エネルギーを発電ブレーキで電気から熱に変換して吸収してしまう。低速域の50km/h以下停止までは在来の空気ブレーキにより台車に取付けられたディスクブレーキをかける。これも電気操作で空気油圧を作動させるやり方なので発電ブレーキとの連携及び動作の瞬速性は今までの車に比ぺて優れている。その他万一発電ブレーキが故障したときは高速域から発電ブレーキと同じ性能で自動的にディスクブレーキをかけることができ、十分バックアップされる。非常ブレーキとしては発電ブレーキに対してディスクプレーキが付加される。この様にブレーキについては高速運転に対して十分な設計考慮が行われる。なお今迄の様な車輪踏面にブレーキをかけることをしないから車輪は安全性、乗心地、保守の面で向上する。
ブレーキ自動制御
   ブレーキ制御は自動化され、ATC自動列車制御装置により軌道を流れる信号電波を運転台で受信し、速度計と照査して電子頭脳とでも称される論理回路機構によって7現示の信号に基いて速度制御が行われ、信号を確認することから、ブレーキのかけ、ゆるめまでが自動化される。運転士は電車を出発させ速度を上げることだけを行えぱATC自動列車制御装置によってあとは速度制御が行われる原理に基いている。
車体の大きさと形状
   軌間が広くなった分だけ車体幅は広くなり、3.38m(「こだま」は2.95m)となった。車体長さも連結器間で25m(「こだま」は20m)であるから一廻り大型になり旅客の座席数もそれだけ多くすることができる。高さは空気抵抗を少くする意味からも重心を高くしない意味からも現在の「こだま」と同程度として、レール面上3.95mとした。車体は張殻榊造になっており、骨になる柱類には軽最型鋼を用い外板は1.6ミリの普通鋼板を使用し屋根は側板と連続した丸味でつながっているが、1.2ミリの普通鋼板で張ってある。鋼体は既に予め浜松工場で実物大試作を36年1月製作し強度試験を行ったが軽量且つ強固なことが十分確かめられた。この車体設計技術は国鉄が数年来独自の方法で開発してきた軽量車体設計手法を基にして一層軽量且つ強度を有する構造にしたものである。
  列車の端部になる車両の部分は空気抵抗を減ずるため「こだま」より一層流線形となり、目下形状について各種の模型を作って検討しているが、風洞実験などによって最終の形状を決定する。
床下部分にもスカートをつけて空気抵抗の考慮と機器の防塵、保護がはかられる。運転室は前方の見透しのよい位置と操縦のしやすい様な計器、ハンドル、スイッチなどの配置設計を考えている。
新しい冷暖房装置
   客室の窓は「こだま、はつかり」同様に固定窓とし、天井に取付けたヒートポンプ式ユニットクーラにより冷暖房が行われる。その外に補助ヒータも取付けて室温調節は一層具合のよいものとする。
運転中は汚水を車両の外へ排出しない様になっている便所
  便所、洗面所は2両ごとに1ケ所に集中して(便所3室、洗面所2室)、汚物、排水はすぺて床下の汚物タンクに収容して運転中は排出せず、終端駅の設備で排出処理し沿線の環境はもとより車両、駅の衛生については理想的なものになる。
座席
  座席は車体巾が広いので現在の「こだま」程度の腰掛巾のもので1列5人掛(片側3人と2人)の配置も可能であるが、座席数、等級等についてはなお検討中である。5人掛とした場合の1両当り座席定員は列車端部の車両で70人、中間の車両で100人程度となろう。但し試作車では色々の試験測定計器を沢山搭載して走ることになるので座席は一部省略されることになろう。
車両の重量と出力
  車両重量は定員乗車時で約60トンとし、1軸当りの重量は15トン程度と考えている。出力は1両当り680kWで、重量1トン当り約11.3kWになる。(こだまは重量1トン当り約5.3kW)
開業時の編成と試作車の編成
  営業するときは8〜12両程度の編成で使用されることになろう。試作車では4両と2両の編成となる。
その他
  主要な機器の故障検知や安全のための保護装置を十分施し高速運転に於ける万全を期すことにしている。
設計を決めるまでに行った各種基礎試験の主なもの
 (a) 試作台車の台車試験装置上での高速運転試験(250km/hまで実施)
(b) 車体形状を求めるための模型による風洞実験
(c) 実物パンタグラフの風洞実験(時速360km/h相当まで)及び現車試験(175km/h)
(d) 試作駆動装置の試験台上に於ける運転試験(時速250km/h相当まで)
(e) 車軸コロ軸受の回転試験(時速250km/h相当まで)
(f) 試作ディスクブレーキの試験台上に於ける試験(時速250km/h相当まで)
(g) 実物車体の荷重試験(国鉄浜松工場で鋼体を試作、36年1月施行)
(h) 空気取入口の風洞実験(時速250km/h相当まで)


  完成した試作電車の編成は次の図のとおりで、図にあるような様々な種類の椅子だけでなく、台車及びその部品、パンタグラフ、電気機器等もいくつかの種類を採用して比較検討し、最良のものを選択するようにした。
 製造会社は、汽車会社、日本車輛、日立製作所、川崎車輛、近畿車輛の5社で、台車、電気機器等の各部品はそれぞれ複数の専門メーカーで製造されたが、輪軸と車輪は住友金属工業1社で製作されている。



  完成した試験車の主な仕様は次のとおりである。
(1)電車線の電気方式
   単相交流25kV 60Hz
   電圧変動範囲 +20%(最高30kV)
            −10%(最低22.5kV)
   ただし瞬時(30秒以内)に限リ−20%(20kV)まで許容する。
   パンタグラフによって集電 PS9007〜9009
(2)車両の電気方式
   シリコン整流器式 2両を1ユ二ットとし電気的に永久連結とする。
(3)1両当り重量 約58t(空車)
   各種試験要素が含まれており、試作車では重量が少し重くなっているが、量産時には定員乗車時60t以内、空車時54t程度に設計することになっている。
(4)主要寸法(mm)
   車体長さ(連結面間) 25,000mm   車体高さ(レール面上屋根上面まで)  3,950mm
   車体外部の最大巾 3,380mm     ボギー中心間距離 17,500mm
   床面高さ(レール面上) 1,300mm   連結器高さ(レール面上) 1,000mm
(5)性能(2両1ユ二ット)
   連続定格出力 1,360kW   連続定格速度 168km/h
   計画最高速度200km/h 最高目標速度 250km/h
(6)主変圧器 形式
   外鉄形送油風冷式不燃性油仕様  容量 1,810kVA
(7)シリコン整流器
   方式 ブリッジ結線強制風冷式   定格 1,500kW
(8)主電動機
   方式 開放自己通風形
   連続定格出力 170kW   連続定格電圧 415V   連続定格電流 450A
   連続定格回転数 2,200(MT911) 2,250rpm〃(MT912)
   脈流率 30%(A編成) 50%(B編成)
   個数(1ユ二ット) 4×2=8個
(9)動力伝達
   方式 平行カルダン1段歯車減速式   歯数比 29:6=1:2.17   車輪径 910mm(計算用870mm)
(10)台車 DT9001〜9006
   ブレーキ用ディスク付一体車輪使用の二軸ボギー空気バネ使用
   軸距 2,500mm
   油潤滑 コロ軸受
   一体圧延車輪 ディスクブレーキ付
(11)制御方式
   力   行 低圧タップ切換25ステップ(定格23ステップ)
   ブレーキ  発電ブレーキ19ステップ
   制御装置 電動カム式、無接点制御   制御電圧 DC100V
(12)ブレーキ
   方式 発電ブレーキおよび空気ブレーキ(発電ブレーキは50km/h以上、空気ブレーキは全速度域)
   制御 ATC制御および手動制御(速度域により減速度を5段に可変)
   台車基礎ブレーキ デイスクブレーキ
(13)補助助回転機
   電動送風機 単相220Vかご形コンデンサ電動機
   電動発電機 単相440Vかご形誘導電動機(起動電動機付)  3相60Hz220V交流発電機(100kVA) AVR付
   電動空気圧縮機 3相220Vかご形誘導電動機
   インバータ DC100V直流電動機    単相100V 60Hz交流発電機、抵抗起動、AVR付
(14)その他
   空気調和装置 ユ二ツト式、天井分散配置、冬期ヒートポンプ、電気集ジン装置内蔵
   窓は固定窓
   車内放送 搬送式、出力増巾機は2両に1台の分散式
   便所、洗面所は2両分1箇所に配置
   腰掛 固定式、転換式等各種試作して比較
   汚物処理 汚物タンク式
(15)主要電気機器
   主変圧器、低圧側タップ切換器、シリコン整流器、発電ブレーキ用抵抗器、発電ブレーキ制御器、逆転装置、避雷器、空気しゃ断器
   これらは全てユニットとした2両の床下に納めるよう設計

  昭和37年4月20日に新幹線モデル線区 が当時の新幹線総局の直属の現業区間として発足し、5月17〜24日にかけて2両(2M)のA編成(1001,1002)の搬入・組立、5月30〜6月13日にかけて4両(4M)のB編成(1003,1004,1005,1006)の搬入・組立が行なわれた。
  6月21日にA編成がメーカーから国鉄への受取検査の際、約2km、時速70km/hで本線走行し、これが最初の新幹線電車の走行となった。更に、昭和37年6月25日から B編成による速度向上試験等を実施し、同年10月31日、遂に200km/hの速度に達し、「夢の超特急」としての第一歩を踏み出すことになった。
  B編成は高速走行試験で昭和38年3月30日に256km/hの最高速度を達成、その高速性能が証明された。
  試作電車は試験期間の約2年間は連日試験のためモデル線を往復し、得られたデータは、量産車の設計にフィードバックされた。
  主な試験内容は次の表のとおりである。
年  月  日 試  験  項  目 試  験  内  容
37.4.20 新幹線モデル線区発足  
37.6.25 試運転開始 モデル線にて試運転を開始。26日に試運転開始式典。
37.10.31 200km/h試運転 200km/hの速度の試運転。
37.11.11〜11.23 200km/h総合高速試験 軌道構造、橋りょう、車両性能、集電性能等合同で200km/h走行の総合的試験。11日から3日A編成、20日から4日B編成を使用。
37.12.19〜12.28及び
38.1.22〜1.24
自動列車制御装置(ATC)試験 ATC各形式の総合動作試験。
37.12.29〜38.1.14 車内圧変動試験 高速でトンネル内に突入するときの車内圧の急激な変動を測定。
38.1.26〜2.4
38.10.16〜10.18
及び38.11.7〜11.22
パンタグラフ性能試験 各形式パンタグラフの比較試験。
38.1.30〜2.6
38.2.19〜2.27
及び38.8.23〜8.27
台車性能試験 台車の形式と蛇行動の発生の関係等の調査。
38.2.14〜2.15
38.2.20〜2.24
38.3.2〜3.3
38.7.14〜7.26
及び38.8.8〜8.16
人間工学試験 200km/h ATC運転と運転士の生理的疲労の関係
38.3.11及び
38.4.25〜4.27
列車すれ違い試験 トンネル内およびトンネル外でのすれ違い時の車内圧力、窓ガラスの圧力を測定
38.3.19 243km/h試験 243km/hの試運転
38.3.30 256km/h試験 256km/hの試運転。その後も250km/h前後の速度の試運転はときどき行った。
39.4.21 新幹線モデル線区解散式  

  昭和39年2月15日には量産車のうち先行製造された 車両の第1陣が鴨宮基地に到着、19、24日と2両ずつ搬入され、3月2日に6両編成として完成、受取試験後の8日から性能試験が開始された。この編成はC編成と呼ばれ、日本車輛製の6両(211+261+352+161+252+221) であり、A+B+Cの12両編成での電力負荷試験、A+BとCによるすれ違い試験などの最終確認走行試験を実施した。この編成は1次量産車の一部として営業車で使われた。
  このモデル線区では試乗も行なわれ、10万人以上が実際に200km/hを経験したといい、新幹線に対する理解と開業に対する期待を広めるのに大きく貢献した。
  なお、昭和39年10月1日の東海道新幹線開業を控え、A編成は8月に救援車の941形に、B編成は9月に922形電気試験車(T1編成)に浜松工場で改造された。941はその後出番もなく、また、T1編成は昭和49年10月の922-11(T2編成)投入に伴い引退し、いずれも昭和50年末に廃車、昭和51年に浜松工場の廃車解体設備稼働開始時に解体された。


索引に戻る